【サマーウォーズ】(監督:細田守/声の出演:神木隆之介、桜庭ななみ)
試写会での鑑賞から2週間以上経った。鑑賞当時は「まぁ、佳作程度だね」という印象しか受けなかった。細田守の前作「時をかける少女」(2006)のインパクトがあまりにも強く、そのあまりにも高い壁を乗り越えていない気がしたからだ。家族にも友人にも「時をかける少女のほうが面白かった。期待しちゃいけない」と無理にまで煽らなかった。だがしかし、じわじわっと、胸中に沸々と湧いて出てくるように「ああ、そういえばここまで真剣に家族を描いたアニメーション映画って、あまり無かったよねぇ」と、ここ最近印象が上がってきた気がする。<家族>を描いたアニメーション映画は、意外にも少ない。今年公開された作品を観てみると、どれも決まって<友情>や<恋愛>に重きが置かれている。その二つの要素だけではないが、もっと直接的に家族という風呂敷を大いに広げたアニメーション映画は今年の中では正直、皆無に等しい。先日、某有名映画サイトの掲示板の話題に、同じくこの映画の試写を見たという男性のコメントがあった。「家族を描くのは宮崎駿で充分なのに」とある。そもそもアニメ界の巨匠・宮崎駿でさえも、<家族>を描いている作品は少ない。強いてあげるなら「となりのトトロ」(1988)くらいなものだ。寧ろ、高畑勲の作品が<家族>をより根本的に描いているといえる。「火垂るの墓」(1988)「おもひでぽろぽろ」(1991)「ホーホケキョ となりの山田君」(1999)と三作品も挙がってくる。もっとコアなファンになってくると、そのようなジブリ作品ではなく「ユンカース・カム・ヒア」(1994)を<家族>を描いた優良な作品として取り上げる人も少なくない筈である。しかし、今までに枚挙したジブリもユンカースも既に10年、いや20年以上前に生みだされたものである。21世紀に入ってからはどうだ。ずっと見渡しても、ジブリはおろか、追随する気鋭のアニメーターの作るアニメーション映画は活動力重視の気がするのである。画面一杯に繰り広げられる戦闘もの、ロボットもの、はたまた慌しく少年少女の成長を描いた活劇。ジャパニメーションの視野は拡大する一方、例えば原点回帰をして最も身近で重要な要素を丹念に描こうとするアニメーション映画はかなり少ない。一瞬、頭を過った、一匹の狼と山羊を主人公に据えた「あらしのよるに」(2005)を反芻してみたが、いや、あれは「種族」を描いた内容で、家族映画ではない。無難に挙げるなら、クレヨンしんちゃんという狭苦しいフィールドから抜け出し、一つの家族を通して、現代日本の様々な問題を否応無く浮き彫りにさせた「河童のクゥと夏休み」(2007)を監督した原恵一くらいである。久しぶりのアニメーション映画、いや日本映画そのものの快作だった。いや、ひょっとすると21世紀になって9年、それまでに封切られたアニメーション映画の中で圧倒的な完成度を誇っていると断言できる。私も鑑賞当時、あまりにも興奮してしまい、ミクシィの日記に思いの丈をぶつけるのは良かったものの、ネタバレ三昧&脈絡不在(それ以前に、映画のタイトルから安易な子供向けと判断して興味なぞ無かったに過ぎないとも思ってもみる)という畜生な文章を綴ってしまったので周囲から総スカンを喰らってしまったのは悔しかった。しかし、その年のキネマ旬報・ベスト10では、ジブリ映画以外のアニメーション映画として初のランクイン(第5位)を果たし、してやったりな安堵を浮かべる私でありましたとさ。
さて、話は脱線に次ぐ脱線で、何を言いたいのかサッパリなのである。要は家族を描くアニメーション映画は不遇だ(唐突だなぁ)。あまりにも日本映画の話題の隅にも点在しない。前述の「ユンカース」に至っては、殆ど知っている人間はいないのではないか。公開当時、惨めな公開規模と散々な興行収入。アニメーション関係者の間では100%の知名度を誇る、「隠れすぎた名作」となってしまった。さらに小学生の女の子とシュナイザー犬が物語の主人公という地味な設定である。当時は、今日のような「いぬ映画」が流行していたとは言い難い。丁度その頃、ジブリが高畑勲の狸映画を公開していた。そう世間は犬よりも狸だったのだ。大きなスクリーンで「♪赤勝て、白勝て、どっちも負けろ。負けた狸をぶっ殺せ♪」と女将狸がチンドン鳴らしている間にも、「ユンカース」という名作は、高畑の狸たちが嘆いていた、ニュータウン開発に消失した山のように存在すら、掻き消されてしまったのである。「河童のクゥと夏休み」はどうだ。何せ、クレヨンしんちゃんの概念を打ち砕き、日本中の保護者を号泣させた原恵一だ。特に評価の高い、傑作「オトナ帝国の逆襲」(2001)では、ひろしの回想に泣かされ、そしてラストでは吉田拓郎の「今日までそして明日から」が流れながら、野原一家が20世紀博を去っていくシーンに誰しもが暗い見通しの21世紀を精一杯、家族で支えあって乗り越えていかなければならないと、決意したことであろう。その、原恵一なのだ。そんな阿呆みたいにアニメーション離れな映画を作り、成し遂げてみせた稀代の映画人が作った、満を持しての最新作「河童のクゥ」はもっともっと、配給の松竹が心血注いでバックアップすべきだったのだ。所詮、天下の東宝にはテレビドラマをフジテレビと一緒に映画化するしか能が無いのだから、東宝が手を出さないジャンルを、頑張らないでどうするのか。内容は必ずしも子供受けしないが、でも純真な子供を騙してでも観てもらわないといけない。2時間20分という長尺が受け入れられないかもしれない。でも、無理矢理に席に押し付けても、その価値は薄れないはずだ! という、強い信念みたいなものが結局松竹には無かったということである。結果的に「河童のクゥ」は原恵一の5年ぶりの待望作であったにも関わらず、3億円の興行収入で寂しく留まったのであった。
不遇だ。あまりにも不遇だ。<家族>がしっかりとヒットしないアニメーション映画界に殴り込みを掛ける映画人はいないものか。……いた。それが細田守の最新作「サマーウォーズ」である。間もなく、というか明日8月1日・映画の日から公開という絶好の機会だ。ヒットして貰わなければ困る。ヒットしないジャンルは、もしかするともうアニメーション映画でも拝めないかもしれないのだから。
映画のストーリーはというと、非常に現実味を帯びており、世界的に流行しているSNSをもっと生活に肉迫させた、OZという仮想世界がクラッキングされ、大勢の利用者もしくは公共機関、企業のアカウントが乗っ取られる事件が発生する。そんな危機に数学の名手である、高校生の健二と、彼が憧れている高校の先輩夏希と武田信玄の家臣の末裔である、多種多様な陣内家の本家、その親戚一同が立ち向かっていく、いわばタイトル通り「夏の陣」の様相を呈した大家族活劇なのだ。名前が覚えきれないほどの登場人物が出てくるが、富司純子演じる90歳の栄お婆ちゃんの気概にまず圧倒されることだろう。未曾有のネット災害においても、まず<家族>の連携を第一にして、「家族が一致団結せねばいけない。やれば出来る。諦めちゃいけないよ」とディジタルに立ち向かうにしても、決して忘れてはいけないアナログな姿勢を崩さない。そして観客は、栄が古い知り合いに連絡を取り合うために用いる手段に、それまで散々OZのハウツゥ含め、ネット社会の描写に慣れ親しんだ目をパチクリさせてしまうことだろう。ここがある種のミソみたいなもので、仮想社会のOZの混乱が一つの主軸なのに、なぜわざわざ長野県の片田舎を現実世界においているのか、その理由もおのずと分かる。
ネット上のコミュニケーションは、私の中では脆すぎると思う。そして紛れも無い仮の姿なのである。ミクシィのような現状のSNSでも、私の経験上、人と人との繋がりはガッチリしているかと自問すれば、絶対何処かで遠慮している部分が存在するからである。中には本心をひた隠さずにいられる人もいるが、残念ながら元々、ネットなんかで自分を遠慮させながら根深くいようとは思っていないのではないかと思えるのだ。その人は、元来、現実に生きる人なのだ。但し、あくまで客観的なだけで、本人からすると「本心じゃないのになぁ」と呟いているのかもしれない。全部引っくり返して、本当のところは当事者以外分からないものだ。至極当たり前の話ではあるが。結局、パソコンの画面を仲介して、文章を打ち込み「会話のような会話」を交わして、互いの顔を意識できないコミュニケーションの進歩は容易なのだろうか? なかなか、難しい世界なのだと思う。ミリ単位以下の、非常に微妙な精神領域の中だ。OZの存在する、多分決して遠くない未来に誰しもが、老若男女問わず其処にアクセスする為の端末(劇中では、携帯はもちろんのことニンテンドーDSからもOZに繋がる)を持ち合わせ、生活の主体及びビジネスに活用していても、それらは人と人とのコミュニケーションがあってこそ、感情面を含めて成り立つものではないのか。現在において、最も身近なのはAmazonなどのネットショッピングがある。否定はしない。全国何処にいても希望の商品をワンクリック、注文できる。細微のようで実に簡単なので、私も度々活用する。店頭価格よりも安い、というのも購入意欲が沸くというものである。だが、注文するにしても単なる作業と化してしまうのは言うまでも無い。其処に、人と人とが直接介することは皆無なのだ。強いてあげるなら、注文した商品を届けに来る配達員とのやり取りくらいか。しかし、大概の配達員は、届け物の中身なぞ知る由も無いのである。ネットワークの進歩は、生活速度にもゆとりが生まれ、潤滑な社会が生まれる。サマーウォーズのOZのように、完全に生活の母体となれば潤いも増すということになる、かもしれない。「人との繋がり」は感じられないけれど。もっとも、その一種として、アバターという自分の分身キャラクターがOZの住人として存在するが、あくまで偽者だ。
さて、サマーウォーズは正真正銘の家族映画である。OZという仮想世界はあくまで見せかけ。OZで繰り広げられるアクションと策略、敵味方問わず、色彩豊かなキャラクター達が縦横無尽に駆け回る姿に、子供のみならず大人の鑑賞に堪えうる活劇が見応え抜群。さらに、世界終末へ否応無く向かう、スペクタクル溢れる展開、それに対する親戚一同の奮迅ぶりもギャグ要素を織り交ぜ、面白おかしく魅せる。監督の熱望で実現した山下達郎の主題歌も余韻を際立たせるのにも一役買っており、心地良い納涼気分と共に劇場を後に出来るだろう。しかし、どんなに目まぐるしい程、豊かな要素に富んでいても、終始このサマーウォーズには家族そのものが関わる。「家族で決着つける」が合言葉のように付きまとうのだ。この映画において、世界中のOZを利用する人がまさに繋がっていくシーンみたいなものが描かれるが、私から見れば何ともご都合の良い展開だ。私が当初、あまりこの映画を評価できなかったのもネットコミュニケーションに対する中途半端な肯定が描かれていたからだ。だが、今思うと単純にエンターテイメント趣向に完成させた細田の気概の一つと捉えることが出来る。傍から見ればちょっとくすぐったいけれど、大団円に向けての布石と思うと映画として成功している。それよりも何故今更、再評価したかったというと、劇中のOZで巻き起こる騒動の根本に蠢いているのも、<家族>という意識だったからだ。何度も何度もしつこいようだけれども。
劇中、中盤近く、ふらふらっと大家族の前に現れる侘助という男に着眼して頂きたい。もし観て下さるのであれば。その男の境遇、ゆえに抱えるコンプレックス。それがもたらした真実が分かる瞬間、人という理性をもつ唯一の生き物が辿り着く先は、家族なのかもしれない。巡り巡って家族に辿り着いた思惑が、たとえば恩返しであれ、「恨みや妬み」といった憎悪であれ、<家族>を意識しているという意味では一緒なのだと思う。結局、普通の人間を名乗っているならば父親、母親、兄弟、姉妹、祖父母で構成された中で少なからず、いや間違いなく過ごしているからである。細田守は、ネットコミュニケーションで成り立ちつつある世の中を、本作でコミュニケーションの本家大元である<家族>という明快な立場を用いて、打ち破ってみせた。なんとも、爽快なカリカチュアである。今夏必見の一本。小難しいことなぞ考えず、ジメジメした湿気が続く世の中、是非「劇場から出た後、晴れ間が広がってそう」な本作をご覧になって、健全な精力剤を大家族・陣内家の人々、そして彼らに翻弄されながらも、周囲を鼓舞しながら成長していく主人公・健二から注入されてみてはいかが?
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