コラスペ終了。批評会から数日経って、落ち着いて振り返ってみると、本音、去年と比べてすっかり身内色になってしまったのだなぁと驚く。恒例の大賞選出も、その批評会の中で作者一同が一斉に自分の気に入った作品を指名し、多数決方式。「お祭り」なのだから、大丈夫だけれど、折角のコラスペ。参加者以外の投票も掲示板で募っても良かったのじゃない? と首を捻る。が、コラスペ自体は賞云々ではなく個々のスキルアップを目的とした「しばき合い」みたいなもの(良い意味で)なので、何だかんだコレで良いのだと納得。納得したらば、後日、私の個人的な感想をまた投稿したいと思う。そういう機会ならば、私は歯に衣着せない。容赦はしないと思う。チャットではすっかり緊張して上手く自分の意見を即興で言えなかったが、読み返せば読み返すほどに、言いたい事は山ほどあることに気付く。
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とりあえず「ATOM」はお蔵入り。修正も大幅にして、サイトに掲載しようと思ったがやめた。幾ら時間に追われて無理矢理な形になってしまおうと、私自身納得して結論した作品。修正してもそれ以上の作品に仕上げようとしても「ああでもない、こうでもない」と堂々巡りになるだけ。混乱するだけ。だから私は「ATOM」は完成品の上で「お蔵入り」にすることにした。残念。
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ところで、私の小説はよく「分かりにくい」と言われる。今回のコラスペの批評会でも主催のみすたンさん曰く「分からない。ゆえに、悪いところでさえ見つけられない」。考えてみればそりゃそうである。私はあまり登場人物の心理描写を地の文に表していないからである。無論、わざとだ。例えば、説明するにしても登場人物の表情や行動のみで物語を進めてしまうので、内情を紐解こうにも出来ない。だから「分かりにくい」。
私は小説書きではない。ただの映画好きの端くれだ。今は週末、映画を観れればそれで幸せである。自分が文才でもないことは分かりきっていること。だから小説に真剣に取り組もうとも思わないし、躍起になっていた文学賞応募もすっかり萎えてしまった。だけれど、時折ふっと頭をよぎる妄想をどうしても具現化せねばどうしようもない衝動に駆られる。それを実現させる手段として小説を選んでいるだけなのである。本当にただそれだけなので、普段から小説は買わないしあまり読むことも無い。わざわざ著作物からインスパイアされようなどとは思わない。
「そんな考えなのだから、分かりにくいと思われているのではないか」と蔑まれようとも、私は一向に構わない。むしろ「もっともっと、混乱して頭くらい痛くなってしまえ」と刃向かう。不可解小説でも構わない。良いじゃないかと開き直ってもいい。主人公の心情を、行動や本人が見る情景に代弁させて、ただその繰り返しで物語を進ませて何がいけないのか。だったら、全部を全部、心情を胸の内に吐露させればいいのか。それが所謂、小説的というものか? 私は嫌だ。絶対に書かない、というか書けない。
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こうなったら、「分からない。分からないから、無理矢理にでも分かるまで骨の髄までシャブってやる」と読者を乗せるような作品を書きたい。書いてみせたい。読了した人それぞれが、違う感想を持つような作品を書きたい。
でも、真剣には書かない。「書いてやる」と意気込んでも、思い過ぎてはいけない。思いすぎては「不可解」で何とか持ちこたえているものがさらに瓦解する。私は私のペースで、しかし、固く決心した本心は絶やすことなく、さて明日も仕事を頑張ろう。話はそれから。次回作はパワプロ二次でお目に掛かりましょう。とにかく、今年は二次三昧だ。おやすみなさい。
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